ヒトを裁くのはヒトである。
ヒトを導くのはヒトである。
同じ痛みを知り、同じ考えを知り、同じ心を知らなければならない。
では、ヒトの願いを叶えるのは…?

「神様に願っても、神様はかなえてくれない」

だって、神様は痛みを知らないのだから。



だから目に見えない何かは「痛みを知る」「ヒト」を立てた。
それを「人柱」とみるか「絶対権力者」とみるか。
それはヒトが決めることなのだ。

「神様に願っても、神様はかなえてくれない」

だって、神様は「願い」がないのだから。



ヒトを裁くのはヒトである。
ヒトを導くのはヒトである。
同じ痛みを知り、同じ考えを知り、同じ心を知らなければならない。

同じ「ヒト」であるのならば、同じ「欲」を持っている。
「痛みを知っている」ということは「痛みを感じることが出来る」ということ。

「人柱」か「支配者」か。
「聖君」か「暴君」か。

「ヒト」を裁く「ヒト」は、いつか「神様」になれるのだろうか。



「ヒト」であれと、見えないものは言う。
「ヒト」を裁けと、見えないものは言う。
「ヒト」をわかれと、見えないものは言う。

けれど「お前は神である」と見えないものは言うのだ。

神とヒトは比例しない。
絶対的な矛盾を突きつけられた「ヒト」は
そこに何を視るのだろう。



「ヒト」であり「ヒト」でないもの。
「ヒト」であり「ヒト」になれないもの。

ここは「ヒト」であることを押し付けられ
「ヒト」であることを否定された「ヒト」が造り出した世界なのだ。

だからそう、ここにいるものはすべて「ヒト」であり「ヒト」でない。

一人きりが寂しい誰かが造り出した
「ヒト」の住まう世界なのだ。



平等と秩序を守るために感情は必要か?
正しいことに感情は必要か?

裁きに感情は必要か?

答えはどこにある。
君達人も同じような真似事をしているだろう。
人が人を裁く。法というものにのっとって。
それだけに過ぎない。
ただ、人よりも力があるというだけで。
国という世界ではなく、世界丸ごとを10人で担っているだけで。

一人きりで耐えられなくなった王が造り出した9人の人柱。
「見えないもの」は沈黙したまま。
ただ、世界を見据えている。



見えない何かに囚われた「ヒト」は
見えない何かに怯えながら「しても良い」範囲を模索していった。
…子供が、親の目をかいくぐるように。

貴方の目から見た「神」とはどこにいるのだろうか。
ヒトはヒトを尊び、ヒトは何かを妄信し、ヒトは見えない何かを恐怖する。
それこそが、世界が存続するための何かであり
ヒトがヒトであるために必要なものなのだ。

廻る廻る 輪廻 廻る

人とヒトを結ぶもの
それは時に世界を存続させうる力になる。